【大学受験】慶應義塾大学 法学部 過去問<世界史>2017




I
以下の文章の空 (1) (2) から (13) (14)に入る最も適切な語句を語群より選び, その番号を解答 用紙の所定の欄にマークしなさい。また, 下線部(ア)から(ウ), 及び [A]から[] に関する設問に答えなさい。 なお, [A]から[I]) にはそれぞれ現在の国名が入る。
国家をもたない世界最大の少数民族といわれるクルド人は現在2000万人以上いると推計され,居住地域は現在の(A) [B] [C] [D] にまたがっている。クルド人は現在の国家の枠内では相対的に少数であるが、もし独自の国家を樹立で きればそうではなくなる。国境をまたいでクルド人が行う運動を大きな政治的脅威ととらえる各国は、厳しい弾圧を繰り 返してきた。 [A]は民族的にも宗教的にも複雑であり, 1921年。 [G] の委任統治下で王国として成立した。1920年代から自治を要 求して反乱を続けるクルド人に対し,政府による大掃討作戦が実施された。[A]は[C]に侵攻し、この戦争中5千人 ものクルド人化学兵器で虐殺した。その後のクルド人蜂起も軍に鎮圧され, 100万人以上のクルド人が難民となった。
[B]はクルド人武将が12世紀に創始した(1) (2) 朝に支配された。19世紀になると(B)は、新たな王朝 の支配下におかれたが, ロシア, プロイセン, [G], [H] が参加した(3) (4)会議により撤退させられた。 第一次世界大戦後に[B] および [E]が[I]の委任統治領となり, [E] は1943年に独立した。
[C] は1501年に成立した (5) (6) 「朝で繁栄をきわめたが,1772年に支配下にあった [F] からの侵攻に よって首都が攻略された。19世紀前半には度重なる戦争に敗北し, ロシアとの戦争の結果締結させられた1828年
(7) (8) 条約は治外法権を含む不平等条約であった。これは元来絶対的であるべきシャリーアの危機として ウラマー層に深刻に受けとめられた。西欧列強への従属化を招いた専制支配への批判が高まり, 1906年には憲法が制定さ れたが、翌年に北部はロシア南東部は [G]の勢力圏となった。[F] もまた同じように勢力争いの舞台となり,1880年 に [G] の保護国となった。[C] では1921年に軍司令官がクーデタを起こし、抵抗したクルド人は鎮圧されて自治を奪 われた。
[D)は19世紀を通じて法律・行政・教育の西欧化を進めた。その結果、絶対性を誇ったシャリーアが相対化されて世 俗国家への移行が進展した。1853年に始まったロシアとの戦争では [G]と[I]の支援により勝利をおさめたものの、 戦費のために財政が破綻した。 (9) (10) が起草し,この国で初めて議会設立を規定した憲法は、翌年に始まっ たロシアとの戦争を機に停止された。この戦争の講和条約である (11) (12) 条約には(G)と [H] が反対し、 ビスマルクの調停で会議が開かれ新たな条約が結ばれた。その後さらに激化した列強の勢力争いは第一次世界大戦を引き 起こすが, この固時講和を呼びかけた。「平和に関する布告」は民族自決を謳っていた。1920年の (13) (14) 条 約ではクルド人自治が認められたが、1923年のローザンヌ条約では無視された。1924年憲法は、全住民を宗教・人 種の区別なしに [D] 人とみなすと規定している。翌年に起こったクルド人の反乱は鎮圧され, クルド人同化政策にさ らされた。公的な場でのクルド語使用が一切禁止となったが, クルド人は自らの言語を守り続けた。

 

 


【設問1
下線部(ア)の王朝において, 1881年に立憲制確立を目的に反乱を起こした人物を語群から選び, その番号を (15) (16)にマークしなさい。
設問2
下線部(イ)に関して,これを発表した人物の記述として誤っているものを下から選び, その番号を(17) (18) にマークしなさい。
[01]「土地に関する布告」では地主の土地を無償で没収し、土地私有権を廃止するとした。 [02] 秘密外交の廃止を訴え、列強による秘密条約を公表すると表明した。 [03] モスクワで第2インターナショナルを設立し、世界に革命を広めようとした。 [04] 戦時共産主義のもとで深まった農民の不満をとり除くため, 穀物の徴発をやめた。
【設問3]
下線部(ウ)の条約の内容として誤っているものを下から選び, その番号を (19) (20) にマークしなさい。
[01] スルタン制の廃止 [33] 関税自主権の回復
[02] ギリシアとの住民交換 [04] 治外法権の廃止
「設問4
後の地図の0からと,文章中の[A]から[D] の組み合わせとして正しいものを下から選び、その番号を | (21) (22)にマークしなさい。
D
[01] A = 0 [02) A = 0 [03] A = (0) [04] A = 0
B = ( B = ( B= B = 0
C = (
D C= 0 C = ( C=
= 0 D=6
= 0 =
D D
【設問5]
文章中の[E][F] の国名として正しい組み合わせを下から選び, その番号を(23)
(24)にマークしなさい。
[1] Eヨルダン
Fアルメニア
Fアフガニスタン
[02 Eレバノン [03] Eレバノン [04] Eヨルダン
Fアルメニア
Fアフガニスタン

 

 


[設幅6]
文章中の [G] [H] [1] の国名として正しい組み合わせを下から選び, その番号を(25) しなさい。
(26)にマーク
[0] Gフランス [02] Gイギリス [03] Gフランス [04] Gイギリス
Hオーストリア 「Hイタリア Hイタリア 日オーストリア
イギリス 1フランス 1イギリス 「フランス
01. アイユーブ 4. イプン=サウード 08. カルロヴィッツ」 II. サン=ジェルマン 15. ティムール 19. ヌイイ 23. ベルリン 27. ムスタファ=ケマル 31. ムワッヒド 35. ロンドン
02. アプガーニー
03. イプン=アブドゥルーワッハーブ 05. ヴェルサイユ
06, ウラーピー始パシャ (07. カイロ 109、サイイドアリー=ムハンマド
10. サファヴィー 12. サン=ステファノ 13. セーヴル
14. セルジューク 16. トゥグルク
17. トリアノン
18. トルコマンチャーイ 20. パリ
21. ファーティマ
22. ブレスト=リトアスタ 24. マムルーク
ミドハト=パシャ 26, ムスタファ=カーミル 28、ムハンマド=アブドゥフ 29. ムハンマド=アフマド 30. ムラービト 32. ラパロ
33. ルーム=セルジューク 3. レザー=ハーン

 

 


以下の文章の空欄 (27) (28) から (33) (34) |. 及び下線部(ア)から(カ)に関する設間の文章の 空欄 (35) (36) から (45) (46) 目に入る最も適切な語句を語群より選び, その番号を解答用紙の所定の 欄にマークしなさい。また, 下線部(キ)(ク)に関する設問に答えなさい。
パクス=ブリタニカとは、「イギリスの平和」を意味するラテン語であり,19世紀の大英帝国の繁栄を表す言葉である。 18世紀後半から19世紀にかけてのイギリスの世界的な拡義の過程に目を向けてみよう。
18世紀末にオーストラリアの最初の植民地となったのは, (27) (28) 植民地である。イギリスは多数の適用 因をこの土地に送り込んだが、次第に自由移民の数も増加していった。19世紀中頃に金鉱が発見され, ゴールドラッシュ がおきると,移民の数はさらに増大し,植民地の発展を促した。20世紀初頭にはオーストラリア連邦が誕生し、大英帝国 内の自治領となった。
イギリスのインド支配の担い手となったのは、イギリス東インド会社であった。イギリス東インド会社は, 1757年にフ ランスと協力したベンガル太守軍を破ると, 1764年には (29) (30)の戦いでムガル皇帝, ベンガル太守などの 連合軍に圧勝し,翌年, ムガル皇帝からベンガル (31) (32) 両地域の徴税権を授与された。またマイソール 王国とマラーター同盟を破ったイギリスは、南インドと中部インドを支配下においた。
イギリス東インド会社は,さらにシク戦争にてシク王国を破ると, パンジャープ地方を獲得し, 19世紀半ばまでに インドの全域を支配下においた。しかし, 1857年にインド大反乱が起きると,翌年, イギリスはムガル皇帝を廃し、東イ ンド会社を解散させ, インドを本国政府の直接統治下においた。1877年にはインドは、インド帝国となった。
中国におけるイギリスの帝国主義の展開は、武力を後ろ盾とした自由貿易の押し付けというかたちをとった。清朝は18 世紀半ばから西洋諸国との交易を広州一港に限定する管理貿易体制をとっていた。素や生糸などの輸入によって西洋諸国 で最大の清朝の貿易相手国となっていたイギリスは、マカートニーやアマーストを派遣して、貿易の自由化を求めた が,清朝はこれを拒否した。
イギリスは、輸入超過による貿易赤字を解消する手段として, アヘンの密輪に踏み切り、アヘン吸引は中国の深刻な社会 問題となった。1839年に, (33) (34)が林則徐を広州に派遣し、アヘンを厳しく取り締まると,翌年, イギリス は艦隊を派遣し, アヘン戦争が始まった。この戦争に敗北した清朝は,1842年に締結した南京条約によって, 長江以南の 5港の開港、香港島の割譲。賠償金の支払い,公行の廃止などを認めた。
アロー戦争が始まると, イギリス軍はフランス軍とともに、広州を攻撃し占領したのち, 天津まで迫った。1858年 に清朝はイギリス, フランス, アメリカ, ロシアの四カ国と天津条約を締結したが、その批准にやってきた英仏使節団を 清朝が配撃したことから,清朝と英仏は決裂し,戦争が再開した。1860年、英仏軍は北京を占領し、円明園を略奪し 破壊する蛮行をはたらいたうえで, 清朝と北京条約を締結した。これら2つの条約によって,清朝は外国大使の北京駐在。 開港場の増加, 九竜半島南部のイギリスへの割譲, キリスト教布教などを認めた。 このようにイギリスは18世紀末から19世紀にかけて世界中に進出し、オーストラリアなどの自治領植民地や, イン ドなどの直轄植民地、そして中国などの非公式帝国を擁した巨大な版図の帝国を形成し、かつてない繁栄を謳歌していく ことになった。

 

 


下線部(ア)に関し, マラーター王国は, 18世紀にマラーター諸侯の連合体であるマラーター同盟に移行する。この 王国の創始者は, (35) (36) である。
下線部(イ)のシク王国は, シク教徒が建国した国家である。シク教の総本山ハルマンディルのある都市は、 (37) (38) である。
下線部(ウ)のインド帝国は、インドとパキスタンの分離独立によって崩壊する。現在のパキスタンの国語は、 | (39) (40) 「語である。
下線部(エ)に関し, 1793年にマカートニーは, (41)
(42)の離宮にて, 乾隆帝に謁見した。
下線部(オ)に関し, アヘン戦争開始時にイギリスの外相であり, アロー戦争開始時にイギリスの首相であった人物 は, (43) (4) である。
(下線部(カ)の円明園の設計に携わった人物と同時代に活躍し, ブーヴェとともに『皇興全覧図』の作成に従事した イエズス会宣教師の中国名は, (45) (46) である。
下線部(キ)に関し,これら2つの条約によって清朝が新たに開港を認めた港の組み合わせとして正しいものを下から 選び, その番号を (47) (48)にマークしなさい。
[01] 南京、漢口, 大連。九江, 淡水 [02] 天津、福州,九江 青島, 台南 [03] 南京、天津、鎮江,台南, 淡水 [04] 天津、福州, 遠口, 淡水, 九江
(50)
下線部(ク)に関し、大英帝国自治領となった順番として正しいものを下から選び、その番号を (49) にマークしなさい。
[01] 南アフリカ カナダ→オーストラリア → ニュージーランド [02] ニュージーランド → カナダ→ オーストラリア → 南アフリカ [03] カナダ→ オーストラリア→南アフリカニュージーランド [04] カナダ→オーストラリア→ニュージーランド南アフリカ

 

 


01 アグラ 05. 嘉慶帝 09. 威豊帝 13. シヴァージー 16. シンド 20. ディズレーリ
02. アムリットサール 06. カシミール 10. グラッドストン 14. シャー=ジャハーン 17. タスマニア 21. デリー 25. トカラ 2. 三ザーム 33. ハイダル=アリー 37. ビハール 41. 北京 45. 南オーストラリア 49、郵世寧
03. ヴィクトリア 04, ウルドゥー 07, カーナティック 08. カビール 11, ダルカ
12.康熙帝 15. ジョゼフ=チェンバレン 18. タミル
19. 通網 22. 道光帝
23, 湯若望 26. ナーガールジュナ 27, 南藤仁二 30, 西オーストラリア 31 ニューサウスウェールズ 34. 白進
35. パーマストン 38, ビンディー
39 プクサール 42. ベンガル
43,奉天 46. 雷孝思
47. ラージプターナ
24. 同治帝 28. 南京
32. 熱河 36, ピット
40. プラッシ
44 ポンディシェリ 48. ラホール

 

 


問題
以下の文章の空欄(51) (52)から(61) (62) 及び下線部(ア)(イ)(オ)(カ)に関する設問の 文章の空欄に入る最も適切な語句を訪群より選び、その番号を解答用紙の所定の欄にマークしなさい。また, 下線部(ウ) (エ)に関する設問に答えなさい。
古くから多くの反乱や武装蜂起が起こってきたが、現政権・体制を倒して,自分たちがとって代わる意図を持っている か否かによって,その性格を異にすると考えられる。そして、近現代の革命では、体制そのものを一定の思想ないしイデ オロギーに基づいて根本的に変革しようとする目的が重要になる。
たとえば、ヨーロッパにおける大規模な農民反乱であったジャッケリーの乱やワット=タイラーの乱は鎮圧され、 崩壊するが,明確な体制変革の目標が, イデオロギー的に示されていたわけではなかった。エカチェリーナ2世治世下 のロシアで起こったプガチョフの乱は鎮圧され、農奴制の強化を導いたが、指導者プガチョフはツアーリを僭称していた。
それに対して, フランス革命では,旧体制の原理的否定とともに、まったく新しい体制・制度を築こうとする思想 が、大きな政治や社会の変革をもたらした。こうした思想と運動はその後の革命のモデルとなり,洋の東西を問わず、後 の時代の政治に大きな影響を及ぼすことになった。
19世紀のヨーロッパでは、社会主義の思想や運動の様々な潮流が見られ,その一部は、革命や革命運動で重要な役割を 果たすようになる。たとえば, 1871年のパリ=コミューンでは,社会主義者たちが活躍した。パリ=コミューンは,その 後第三共和政の初代大統領となる。 (51) (52)を首班とする臨時政府に弾圧されるが、その影響は大きかった。 社会主義運動の中では,『神と国家』の著作でも有名な革命家・思想家 (53) (54)などに代表される無政府主義 も台頭したが、主要勢力になるのはマルクス主義であった。

 

 


20世紀における革命やその企ての多くでは、マルクス主義の系譜に属する勢力が中核となった。社会主義体制を成立さ せたロシア革命は、スターリン独裁を生むこととなり,ソ連型の社会主義体制などと呼ばれるものをもたらした。 中国共産党中華人民共和国を成立させた過程では、農村を重視する革命戦略が重要であった。塩の密売人であった王 仙芝などが中心的指導者であった(55) (56) など,この地にはたびたび農民反乱が起こってきた。しかし, 中 国共産党の革命には、近代的な政治イデオロギーに基づいているなど,異なる性格を指摘できよう。
中国共産党による革命の成功の影響もあり、20世紀後半の発展途上国における革命運動の多くでは,非都市部が重視さ れた。たとえば、ラテンアメリカのある国では、革命の試みは失敗したが、毛沢東主義を掲げるセンデロ・ルミノッ が、まずは山岳部で勢力を拡大した。ラテンアメリカの国 (57) (58)では,ソモサの独裁を倒す革命が成功 した。中心的な役割を果たしたサンディニスタ民族解放戦線は,都市での闘争と並んで、農村ゲリラ戦も重視していた。
こうした近現代の革命とナショナリズムの関わりも重要である。19世紀においては, フランスでの革命がヨーロッパの 各地に影響を及ぼした。当時のヨーロッパの状況ゆえに,それらがナショナリズムと結び付くことも多かった。1830年七月革命の影響は、カルボナリの蜂起やベルギーの独立を引き起こした。後者は, ナポレオン戦争後の会議の結果, 地理的 には接しない国である (59) (60)の領有を離れて,オランダに併合されていた状況からの独立だった。1848年の二月 革命が影響を及ぼしたナショナリズムの動きの高まりの中では,ヨーロッパの重要な都市の一つである (61) (62) で、スラヴ民族会議(第1回)も開催された。20世紀における革命や革命運動の多くでも、ナショナリズムは重要な役割を 果たした。
[設問 (ア)同じ時期のヨーロッパで, 都市の人々によるチョンピの乱も起こった。それが起きた地は,現在の国でいえば、
(63) (64) にある。
(イ) 彼女と同じように啓蒙専制君主であるとされるプリードリヒ2世は、自らの思想を述べる『反(65) (66) 論』
を著した。(65) (66)は、外交官・政治家としても活躍し、重要な政治思想の著作を残した人物である。
(68)にマークしな
(ウ) プランス革命に関する記述として誤っているものを下から選び、その番号を(67)
さい。
[01] 山岳派が権力を掌握した時期には恐怖政治が行われ,ダントンやエベールなど,同じ山岳派の代表的指導者も
処刑された。 [02] フランス西部で農民を中心にして起こったヴァンデー反乱は,王党派の貴族や聖職者が指導し,反革命の性格を
持った。 [3] 国民公会は黒人奴隷解放宣言を決議した。 [04] 革命期には十進法が重視され, 度量衡が変更されるとともに, 1年を10か月とする革命暦が導入された。
(エ) この独裁に関する記述として誤っているものを下から選び, その番号を (69)
(70)にマークしなさい。
[01] オーウェルは, スターリンの独裁を寓意化して『動物農場』を著した。 [02] スターリン独裁は多数の福牲者を出すが、体制の重要な指導者の一人であり, スターリンよりも穏健な政策を
唱えたブハーリンも処刑された。 [03] 1936年制定のいわゆるスターリン憲法では, 複数政党が平等に争う選挙に基づく制度が規定されたが,実際に
は守られなかった。 [14] 農業集団化が進行し,ソフホーズ(国営農場)やコルホーズ(集団農場)の建設が強行された。

 

 


(オ) インカ帝国の首都であった都市をその領土に含む, この国は,
(71)
(72)
である。
(カ) 冷戦終焉前の米国の政権は,共産主義への対抗で独裁や軍政を支持することも多かったが,ソモサ独裁倒壊時の
政権は、人権外交の方針から少なからぬ独裁・軍政に厳しい態度を取った。その米国大統領は, (73) (74) である。
03. イタリア 07. オスマン
II, ケネディ
01. アルゼンチン
102. イギリス 05 エクアドル
06, オーストリア 09. グアテマラ
10. クールベ 13. 紅白の舌。
14, 黄巣の乱 17、スイス
18. スウェーデン 21 ティエール
22. トクヴィル 25. パターニン
26, パラグアイ 29 ブラジル
30、プラトン 33. プレハーノフ 34, プロイセン 37 ペルー
38 ポシュエ 41. ポーランド
42, ボリビア 45. ラサール
46. ラマルティーヌ 49. ローザールクセンブルク 50. ワルシャワ
15, サライェヴォ 19. スペイン 23. ニカラグア 27. ハンガリー 31. プラハ 35. ペテルブルク 39, ボーダン 43. マキァヴェリ 47, 季自成の乱
14. ウィーン 08. カーター 12. 黄巾の乱 16. ジョンソン 20. 赤信の乱 24. ニクソン 28 フィンランド 32. プルードン 36. ベネズエラ 40, ホッブズ 4, メキシコ 48. レーガン

 

 



題 IN
(100)に入る最も適切な語句を語群より選び, その番号を解答
以下の文章の空欄(75) (76) から (99) 用紙の所定の欄にマークしなさい。
慶應義塾大学法学部では1・2年生で語学と自然・人文・社会科学の教養科目, 3・4年生でゼミナールを中心に専門科 目を学び, 大学院でさらに高度な研究教育が行われる。こうした研究・教育の仕組みにどのような世界史的背景があり、 どのような変遷を経て現れてきたのか。考えてみよう。
古来、様々な文明が専門的知識を蓄積し継承する制度を生み出してきた。古代においては、紀元前16世紀から12世紀に かけてバビロニアを支配した (75) (76) による王国や,カデシュでエジプトと戦った国家とともにメソポタミアに 割拠したある王国から独立を回復したのち, 広大な版図を支配した国の王は,その首都に図書館を建設した。ヴァチカン 宮殿の「署名の間」に (77) (78) | が描いた壁画の中央付近に立つ哲学者が拓いたアカデメイアでは,その隣りに 描かれた哲学者も学んだ。科挙は全国から優秀な人材を登用する試験として整備され,唐代には (79) (80) が 国定の借学注釈書となった。マディーナ=アッサラームと名付けられた都市では,そこを首都として建設したカリフの曾孫 にあたるスンナ派のカリフが創設した (81) (82) で, ギリシア語文献等のアラビア語訳が進められた。トルコ系 イスラーム王朝の教育機関で教授を務めた (83) (84) は,『宗教諸学のよみがえり』を著した。
中世ヨーロッパでは、文法、論理(弁証), (85) (86)の3学とその他の4科からなる自由7科が、教養の基本 として教会や修道院で教えられた。やがて誕生した大学において,それは各専門学部のための基礎的な教養課程とされた。 たとえば『黙りと否』の著者である (87) (88) が活躍した都市で、13世紀頃に国王や教皇によって自治を認め られた大学では創設当時,それらの教養を教える学部を修了した者だけが専門学部に進むことができた。その大学では 『神学大全』の著者も教授を務めた。彼が属したドミニコ修道会神学者たちは,自由74の上位に哲学を位置づける教 養概念をもたらした。
ルネサンス人文主義宗教改革によりその教育内容は若干変化したが、大学は次第に停滞していった。近代科学の発 展から取り残されたかに見えた大学は,しかし19世紀には国民国家発展のための機関として復活した。ナポレオンの脅威 によってナショナリズムが高揚したドイツでは,それを表現した哲学者を初代総長としてベルリン大学1810年に設立さ れた。彼の影響を受けた『法の哲学』の著者 (89) (90) も,のちに同大学の総長となった。この二人に影響を 与えた (91) (92)|は『諸学部の争い』のなかで,社会的有用性を追究する諸学部と,それらを下支えし理性の 自由を探求する哲学部との緊張をはらんだ連関によって大学は成り立つとした。このような,大学は有用性によって国家 に貢献しつつ, 学問の自由を守るために政治権力から自律すべきだという発想が広まっていった。またベルリン大学など では、知識の伝授だけではなく学生自身が研究するゼミナールや研究室といった仕組みが導入された。国家発展の機関と しての大学は, 日本の帝国大学や, チャクリ改革を行った」(3) (94) の別名を冠して1917年に大学となった学校 など,近代化を進めるアジア諸国にも設立されていった。 一方, ベルリン大学などのドイツでの改革は、エリート層に文学などの教養を伝授する教育が中心だった米国の大学にも 波及した。その最初期の試みのひとつは、州の権限や自治を擁護した (95) (96)が大統領を辞したのち、故郷で 創設したヴァージニア大学である。そして1876年に創立されたジョンズ・ホプキンス大学は,従来の学部の上により高度な 研究型教育を行う大学院を初めて設置した。このモデルは成功し,その後の米国の発展とともに世界中に広まった。慶應 義塾大学法学部の制度やカリキュラムも,こうした世界史的展開を受け継いでいるのである。
また時代の変化とともに,大学での教養教育の目的や内容も変化した。教養とは一部の有関エリートの知的嗜みや徳性 歯治のためのものではなく、近代の自由な社会に生きるより広い人々に開かれ,それを自由に学ぶことで知性を自由にし、

 

 


独立した個人としての主体性を育むものだという考えが広まったのである。福澤諭吉が目指したのも、そのような教育で あった。そして社会関係がますます複雑化した現在、福澤の提唱した「実学」にもみてとれる,知識と経験を現在の問題 と関連づけてより豊かな未来をもたらす知性の機能を重視する道具主義の思想を大成した (97) (98) が、 自ら 教鞭をとった大学の「実験学校」で試み, またインド人のノーベル賞受賞者 (99)(100)がシャンティニケトンに 創設し、のちに大学となった学校で検索したような、批判的思考と他者への共感・想像力を培う大学の役割が重要になって いる。
11. アズハル学院 02. アダム=スミス 03. アッカド
アベラール 05. アムル人 06, アルクイン
07. アンセルムス 08. アンペードカル 09. イブン=シーナー 10. イプン=ルシュド 11. ウィリアム=オプ オッカム 12. 音楽 13. ガザーリー
14. カッシート人 15. カーバ聖殿 16. ガンディー 17. カント 18. 幾何学
19. ゲーテ 20『五経正義』 21.『五経大全』 22.コント
23、算術 24. ジェファソン=デヴィス
25. シェリング
.『四書大全』 27. シハヌーク 28. ジャクソン 29. 修辞
30 シュタイン 31. シュメール人 32. ジョン=ステュアート=ミル
3 シラー 34. ジンサー 35.『水経注』 36, スペンサー
37. 『斉民要術』 38, タゴール 9, タバリー 40. デューイ
41. 天文 42. トマス=ジェファソン 43 ニザーミーヤ学院 4. ネルー
5. パイト=アルヒクマ 46 ハルデンベルク 47. フィヒテ
48 プラマンテ
49. フワーリズミー 50 プンセン 1. ヘーゲル 52, ベンサム
53, ヘン=サムリン 54, ボッティチェリ 55. ミケランジェロ 56、ミタンニ人
57. ラファエロ 58 ラーマ4世 9. ラーマ5世
60 リンカン 61. レオナルド=ダ=ヴィンチ
62、ロジャー=ベーコン 3. ロック
64, ワシントン