【大学受験】立命館大学 全学統一方式(文系・2/4)過去問<日本史>2018


I 次の文章を読み、(a)~(t)の問いに答えよ。なお、設問中の史料は読みやすく
改めている箇所がある。 「遣隋使や遣唐使随行した留学生・留学僧は,隋・唐の新たな法や制度を日本に 伝えたが,一方で、より密接な関係にあった朝鮮半島高句麗百済新羅の法・ 制度にも強い影響を受けた。大化改新の段階で新たに設定された, 五十戸で編成さ れる行政単位は,百済などの制度に倣ったものとされる。また, 冠位十二階の制に
始まり、7世紀を通じてたびたび改定された冠位の制度も,大陸・半島の影響によ るものであった。
663年の白村江の敗戦を経て、強固な中央集権体制の確立が早急に求められるよ うになると、法・制度の整備が急務となる。9世紀、嵯峨天皇の時代に編纂された 格式の序には,「天智天皇元年に至り、令十二巻を制す。世人の所譜 | A]朝廷 の令なり」とあり,天智天皇の時代に令が編纂されたとされるが、巻数が | B 天皇の時代に施行された飛鳥浄御原令と同じという点もあり,その存在を疑問視す る意見も出されている。その飛鳥浄御原令の施行に伴い、翌年戸籍が作成され,以 後6年ごとに造籍が試みられるようになる。 8世紀になって,刑部親王藤原不比等らによって編纂された大宝律令が完成し、 施行された。この律令は律6巻・令11巻からなり,のちに編纂される養老律令が、 当時太政官の首班であった|c|により施行されるまで、半世紀以上の間、律令 政治の基盤となった。律・令ともに完全な形では残存しないが,令の内容は,9世 紀に編纂された養老令の私撰注釈書である | D | の記事により、一部うかがい知 ることができる。
718年に藤原不比等により編纂された養老律令は,律令ともに10巻で、内容的に は大宝律令と大きな相違はないものとされる。律の一部と、令の大半が | p|な どから知られるが,律は基本的に唐の律に倣ったもので、五刑と称される罪人の刑 罰の内容などが示されている。これに対し、令は行政法民法としての性格を有す るもので、ここでは律令官人の組織として二官八省とその職務内容や、位階・官職 に対して与えられる俸禄や勤務評定、公文書の形式, 班田収授と田制、租・膚・ 調・雑修などの農民の負担に関する規定、都の防備や各国に配された兵士、関所や 市の設営、公式の衣服の規定など、多様な内容が盛り込まれた。
唐の令とは異なる点として、太政官と並び | E | がおかれ、国家の祭祀を掌っ た。また, 日本令独自の編目として僧尼令があり,僧尼の生活が細部にわたり規制 され、違反した場合の罰則などが示された。
律や令の規定は基本的な方針を示したもので、その施行細則として式が制定され、 また情勢の変化に応じてその内容を補足・変更するために、格が出された。格は天 皇の命令である詔勅や,太政官から下位の部局に対して発せられる符の形を取るも のが多く、ときには令の基本方針を大きく改めるものも存在した。格や式は9~10 世紀に取りまとめられたが、式の方は、10世紀初頭に編纂された | F | からその 内容が知られる。 「官人の制についても、必要に応じて令に既定のない官職が設けられた。三位以上 の位をもつ公卿の会議に,四位の者でもこの官職につくことで参加が認められた
G | は,早い段階でおかれた令外官の例であるが、平安時代初期の桓武天皇嵯峨天皇の時代に,複数の令外官がおかれ、重要な役割を果たした。地方行政を整 える目的で国司の交代を管理するために設けられた | H|や、天皇の秘書的性格
(
をもっ|I|などで、令制の官人より実質的に強い権限をもつ場合もあった。
(a) 下線部のに関連して、遣隋使に随行して留学し、帰国後大化の新政府で国博
士の地位に就き,のち自身が造唐使として派遣され,書で死去した人物は誰か。
もっとも適切な人名を答えよ。
(b) 下線部に関連して、次のあ~るの史料のうち、大宝律令制定以前の7世紀
の段階で作成されたものとして、適切でないものを一つ選び,記号で答えよ。 あ(表)辛卯年十月尾治国知多評
(裏)入家里神部身口口 の (表)丁酉年若狭国小丹生評岡田里三家人三成
(裏)御調塩二 3 三方郡弥美郷中村里 別君大人三斗
永昌元年己丑四月,飛鳥净御原大宮那須国造追大专那須直韋提,評督被賜。 (c) 下線部に関連して、当初第五位の大礼の冠位を有したが、遣隋使としての
功績により第一位の大徳に昇進したとされる人物は誰か。もっとも適切な人名
を答えよ。 (d) 下線部のに関連して、次の史料文の空欄ィ|と下線部東宮太皇弟に該当
する人物の組み合わせとして、もっとも適切なものを下のあ~ののなかから一 つ選び,記号で答えよ。 「(天智十年正月)奏卯大錦上中臣金連、命にして神事を宣る。この日に | |をもって太政大臣に揮す。蘇我赤兄臣をもって左大臣とす。中臣金連 をもって右大臣とす。(略)甲辰、東宮太皇弟奉宣して、戦本に伝はく, イ 宣命す。冠位・法度の事を施行す。天下に大赦す。法度・冠位の名は、具に新律令
に載せるなり。」
(『日本書紀)
中大兄皇子大海人皇子 G イ 大海人皇子 大友皇子
大友皇子 大海人皇子
草壁皇子 大津皇子 (e) 空欄 | A|にあてはまる。 もっとも適切な語句を答えよ。 (f) 空欄 | B | にあてはまる. もっとも適切な天皇名を答えよ。 (g) 下線部に関連して、この戸籍の名称を答えよ。 (h) 下線部の藤原不比等が朝廷の政務に関わった時代に行われた政策に関する 史料として、適切でないものはどれか。下から一つ選び,記号で答えよ。
それ銭の用なるは、財を通わして有無を貿易する所以なり。当今、百姓な お習俗に迷ひて未だその理を解せず。僅かに売買すといえども,なほ銭を蓄 ふる者なし。その多少に随ひて節級して位を授けよ。それ従六位以下、蓄銭 一十貫以上有る者には,位一階を進めて叙せよ。十貫以上には二階を進めて
叙せよ。 の太政官奏すらく、「このころ百姓漸く多くして田池管狭なり。望み請ふら くは、天下に勧め課せて、田疇を開閣せしめん。それ新たに滞池を造り開墾 を営む者あらば、多少を限らず、給ひて三世に伝へん。もし旧き溝池を逐は ば、その一身に給はむ」と。 これより先,一品舎人親王, 勅を奉じて日本紀を修す。ここに至りて功成 て奏上す。紀州巻、系図一巻なり。 昔殿王五たび遷して中興の号を受く。周后三たび定めて太平の称を致す。 安んじてもってその久安の宅を遷せり。方今, 平城の地、四禽図に叶ひ、三 山鎮を作し,亀療並びに従ふ。宜しく部屋を建つべし。その営構の資は,事 条に随ひて奏すべし。
(『続日本紀』)
「でんちゅう かいぎょく
(i) 空 |c|にあてはまる。もっとも適切な人名を答えよ。 (i) 空欄p]にあてはまる。もっとも適切な語句を答えよ。 (k) 下線部のに関連して、五刑のうち最高刑である死刑は、仏教思想の影響もあ り薬子の変以来永らく行われなかったが、上皇天皇の対立による騒乱に際し
再び行われた。この騒乱を何というか。もっとも適切な語句を答えよ。 (1) 下線部に関連して、太政官の左弁官が管轄する省の職務について述べた史
料として、適切でないものを下から一つ選び,記号で答えよ。 6 掌らむこと、出納、諸国の調および銭、金,銀, 珠玉,銅, 鉄, 骨, 角, 菌, 羽, 毛, 森, 帳幕。権衡、度量、売買の低価,諸方貢献の雑物のこと。
掌らむこと、内外の文官の名帳、考課、選叙, 礼儀、版位、位記、勲績を 校定し、功を論じ封賞すること,朝集、学校、貴人を策試すること、縁腸、
仮使、家令を補任すること、功臣の家の伝, 田のこと。 O 掌らむこと、諸国の戸口の名籍のこと、賦役、孝義、優復、 免、家入。
奴婢、橋道、津済、薬池, 山川, 藪沢のこと,諸国の田のこと。 2 掌らむこと,本姓、継嗣, 婚姻、祥瑞, 喪葬、贈脚、国忌, 草, および諸 春の朝霧のこと。
(「令義解』職員令)
(m) 下線部のに関連して、自弁で調や盾を都へ輸送する農民を何と呼んだか。
もっとも適切な語句を答えよ。 (n) 下線部TOに関連して,次の史料の空欄| ハ|および|ニ|にあてはまる。
もっとも適切な数字をそれぞれ漢数字で答えよ。
「およそ兵士の上養せむは,京に向かはむは | ハ | 年,防に向かはむは ||年、行程数えず。」
(「令義解』軍防令)
(o) 空欄 | E | にあてはまる。もっとも適切な語句を答えよ。 (p) 下線部Dに関連して、当初僧尼令の規定に反する行動を展開しているとして、
朝廷から名指しで批判されたが、のち大仏造立などに協力して大僧正の位を与
えられた僧は誰か。もっとも適切な僧の名を答えよ。 (g) 下線部に関連して、荘園制の展開に伴い、太政官符など中央官庁の文書で
不輸の権が認められた荘園を何と呼んだか。もっとも適切な語句を答えよ。 (r) 空欄 | F]にあてはまる式の編纂に加わった。 ときの左大臣は誰か。もっ
とも適切な人名を答えよ。 (s) 空欄 | G | は731年に正式に設置され,大臣, 納言につぐ重職とされた令
外官である。これにあてはまる. もっとも適切な語句を答えよ。 (t) 下線部の空欄 | H | および | |I| にあてはまる語句の組み合わせとし
て、もっとも適切なものを下から一つ選び, 記号で答えよ。 あ H 検非違使I 勘解由使 G H 蔵人頭 I 検非違使 ○ H 検非違使I 蔵人頭 2 H 勘解由使I 蔵人頭

 


II 次の文章(1]・[2]を読み、(a)~(o)の問いに答えよ。なお、史料は読みやす く改めている箇所がある。 [1] 鎌倉時代には、荘園・公領制のもと交通の要衝や寺社門前などで月三回の市
が定期的に開催されるようになり,室町時代、とりわけ応仁・文明年間以降に は、美濃国大矢田市, 山城国宇治郷市をはじめ,|A|が一般化した。
また、鎌倉時代後半には,農村へも銭貨が普及して,荘園年責の代銭納が広 まり、「泊々の | B, 漆々の|c | 浦々の| D |」(『庭訓往来』)と 並び称されるような, 商品の中継・運送業や遠隔地間取引が発達した。
交通の発達と物資の運搬は、同時に流通に課税することで収入を得ようとす る動きをもたらした。『太平記』はその冒頭、新たに設けられた関所が関銭の 徴収によって「商売往来の撃、年貢運送の墳」となっていることを記している し、応仁・文明の乱前夜には、 | E |沿岸の河上諸関において、実に380カ 所の関所が林立し,洛中衰微の因とされたほどであった。また乱のさなかに
室町幕府は,内裏修理を名目に京都の七口に新関を設けたが、幕府はこれを 「武家自用」(『宣嵐卿記」)に転用し、これによって|F|が収益を得たとさ れる。しかし,近年は,幕府が年貢収益に期待できない分、流通への課税に着 目したその先進性を、積極的に評価する研究者もいる。 一方、このような流通への課税行為に対しては、土一揆が蜂起し、新関の停 廃を求めたが、土一揆のみならず、関銭の徴収を逃れたいのは商工業者も同様 であった。次にあげる史料は、そうした関所の免税・通行特権が認められた早 い事例である。
(花押) 下す。 留守所。
早く、八幡宮大山崎|G|等、交易のため | H | 以下雑物を勘
過し,不破関を往反すべき事。 右,宮寺の訴えたるにより、免除せらるべきなり。早く勘過すべきの状 仰するところ件のごとし。もって下す。 貞応元年十二月 日
(『山城離宮八幡宮文書』)
京都などの大都市やその周辺では、すでに平安時代後期や鎌倉時代から、大 寺社や天皇家に属して営業特権を与えられた商工業者の一群があり、同業者団 体である座を結成した。上記史料で、大山崎 | G|が結成した | H |を扱 う座は、その代表例である。
(a) 空欄 | A |にあてはまる. もっとも適切な語句を答えよ。 (b) 下線部1の背景として、もっとも適切なものを下から一つ選び,記号で 答えよ。
評定衆の合議により,銭貨での納入が奨励されたため。 現地の荘官から領家への賄賂には銭貨が適していたため。
中国から大量の宋銭が流入したため。 の 振売の展開によって,農村で奢侈品への志向が生まれていたため。 (c) 空 | B|・|c |・|D|のどれにもあてはまらない語句はど
れか。下から一つ選び、記号で答えよ。 | 割
問丸 替
借上 (d) 空欄 | E | にあてはまる,もっとも適切な河川名を下から一つ選び、 記号で答えよ。
大堰川 桂川 神崎川 2 淀川 (e) 空欄 | F | は将軍の御台所である。これにあてはまる. もっとも適切
な人名を答えよ。 (f) 空欄|G|にあてはまる. もっとも適切な語句を下から一つ選び,記
号で答えよ。
供御人 9 神人車借g堂來 (g) 空欄 [H]にあてはまる. もっとも適切な語句を漢字1文字で答えよ。
(2) 戦国時代には、遠隔地商業は衰えるどころか、いっそう活発化し,港町や宿
場町が発達した。また, 地方寺社の門前町, 一向宗門徒寺内町、さらには戦 国大名のもとで城下町が形成されるなど、総じて地方都市が成熟する時代と なった。これらの地方都市のなかには,離村した農民たちが日雇い労働の担い 手として流入するなど、自由な気風をもつものもあり,戦国大名北条氏の領国 では、これへの対策として、都市に流入した農民たちを「人返し」させる政策 を打ち出さなければならないほどであった。
遠隔地交易や日明貿易を基盤とした都市のなかには、戦国大名間の対立を利 用するなどしつつ自治組織を結成して,|I|で自由な都市を志向するもの が現れた。なかでも堺は、ガスパルヴィレラ書簡中でヴェニスに例えられ、 また次のように記されていることでも名高い。
日本全国、当堺の町より安全なる所なく、他の諸国において動乱あるも 此の町にはかつてなく、敗者も勝者も,此の町に来住すれば|I| に生活し、諸人相和し、他人に害を加うる者なし。(後略)
(『耶蘇会日本通信)
これらの自治都市の町衆のなかには、江戸時代に入ったのちも、豊富な資金 輸送手段, 貯蔵施設をもつ豪商として活躍した者も多く,摂津|J|郷の末 吉孫左衛門、堺の今井宗薫らが有名である。なかでも孫左衛門の父勘兵衛は、 徳川家康の貨幣政策のもとで伏見に | K 設立の命を受け、一族は | | 郷の代官職に任じられ、さらに朱印船貿易でも巨大な利を得た。また|J 郷は、17世紀後半に、早くも都市民のボランティア的な救飢活動が行われた点 でも先進的である。
一方、平安時代以来の大都市京都でも、戦国時代には町、複数町からなる町 | |. 上京・下京レヴェルの | M | 町の三層からなる自治組織が形成 されるまでになった。ただし京都の場合、自治獲得が,治安維持を名目とした 異分子排除の圧力としても作用した点は、他の自治都市から際立った特質とい わねばなるまい。
その京都で、町衆から豪商へと発展した例としては、室町時代に酒屋・ 「N|が集住していた嵯峨地域の有力商入吉田氏の屋号を苗字の起源とする
0|が著名であり,安南地方との朱印船貿易で利を得、また河川や運河の 開削に尽力した。
(h) 下線部2と同種の政策は、江戸時代の幕政においても取られており,そ の先駆をなすものと見ることができる。そうした政策のうち,寛政の改革 時に取られた政策を何というか。もっとも適切な語句を漢字5文字で答え
(i) 空欄 |I| にあてはまる. もっとも適切な語句を答えよ。 (5) 空欄|J にあてはまる,もっとも適切な地名を答えよ。 (k) 空欄 | K | にあてはまる. もっとも適切な語句を答えよ。 (1) 空欄 | L にあてはまる. もっとも適切な語句を漢字1文字で答えよ。 (m) 空欄 | M | にあてはまる。もっとも適切な語句を漢字1文字で答えよ。 (n) 空間 | N | には金融業者をさす語句が入る。これにあてはまる. もっ
とも適切な語句を答えよ。 (o) 空欄|o|にあてはまる。 もっとも適切な人名を答えよ。

 


I 次の文章(1)・(2)を読み,空欄 | A|~|I| にもっとも適切な語句・人
名・数字(年代は西暦年とする)などを記入し、かつ(a)~(f)の問いに答えよ。 (1) 江戸時代末期、相次いで藩政改革に成功し、藩の力を強化したいわゆる西南
雄藩は、しだいに中央の政局に大きな影響力を与えることとなった。
薩摩藩は, 1862年に藩主 | A|の父島津久光が兵を率いて京都にのぼった。 久光は朝廷を動かし、幕府に公武合体のための改革を要求するべく, 勅使 |B|と共に江戸に下った。幕府はこれを受け入れ、一橋慶喜将軍後見職 に, 松平慶永を|c | に任じるなどの改革を行った。 しかし、その間京都では尊王攘夷路線をとる長州藩が主導権を握り、幕府に 対し,朝廷から発せられた攘夷決行を迫る要求を突き付けた。この勅命を受け て、幕府は1863年5月10日を期に獲裏を決行するよう諸藩に通達したが、実行 したのは下関海峡を通行した外国船を砲撃した長州藩のみだった。
この頃尊攘派志士による外国人殺傷事件も相次ぎ、急進化する尊攘派勢力の 動きを警戒した薩摩藩会津藩らは、同年8月18日に長州藩尊攘派の公卿ら を京都より追放した。これに反発した長州藩は,1864年に藩兵を率いて京都に 進撃したが、薩摩藩会津藩の前に敗れた。幕府勢力は長州藩の罪を問うべく 第一次長州征伐を行い、長州藩は戦わずしてこれに屈した。 「しかし、その後薩摩藩長州藩の距離は急速に縮まっていく。洋式軍備の導 入による改革に取り組んだ両藩は,しだいに幕府を倒し新しい政権を樹立する ことを考えるようになり、ついに | p|年土佐藩出身の坂本龍馬らの仲介を 受け入れ、薩長同盟を結んだ。やがて両藩に対して倒幕の密勅が下され、武力 討幕計画が本格的に動き出した。この間土佐藩士の | E | は、土佐藩主を説 いて、将軍徳川慶喜に自主的な政権奉還を建白していた。慶喜はこれを受け入 れ、大政奉還を朝廷に申し入れたが、それは奇しくも倒幕の密勅と同日のでき ごとであった。
(a) 下線部に関連して, この砲撃に対して、のちに四カ国連合艦隊が下関
を砲撃する事件が発生する。この「四カ国」にあてはまらないものを下か ら一つ選び,記号で答えよ。 イギリス
D ロシア フランス
の オランダ (b) 下線部に関連して, 1860年に江戸で薩摩藩浪士に殺されたオランダ人
は誰か。もっとも適切な人名を下から一つ選び、記号で答えよ。 あ リチャードソン
D ハリス 3 ヒュースケン
& ベルツ (c) 下線部に関連して,この政変の前後には尊攘派志士たちによる挙兵が
相次いだ。1864年水戸藩の藤田小四郎らが挙兵したできごとは何か。 もっとも適切なものを下から一つ選び、記号で答えよ。 桜田門外の変
6 天誅組の変 つ 生野の変
2 天狗党の乱
[2] 明治新政府にとって、政治の仕組みを整えることは重要な課題であった。 1868年3月に公布された五箇条の誓文のなかで、政府は「広ク会議ヲ典シ,方
機公論ニ決スペシ」と述べ、公議公論に基づく政治を行うことを宣言した。こ れを受けて園4月に出された | F においては、太政官に権限を集中させつ つも、そのなかでの三権分立を目指した。立法官とされた | G | は、当初議 定、参与からなる上局と,各府藩県から選出された貢士による下局に分かれて いたが、下局は翌1869年3月には、各藩の代表を集めた | H | へと改組され た。
この間東京を中心とする中央集権国家づくりも進んだ。新政府は、守旧勢力 の多い京都から明治天皇を東京に移住させ、そこを事実上の首都と定めた。ま た。 旧幕府の直轄地は府・県としたが、残された諸藩領についても直接統治に 組み込もうとした。1869年1月4藩の藩主が朝廷に対して版籍を奉還、全国の 藩主がこれにならった。さらに1871年7月には一挙に廃藩置県を断行した。当 初これには相当の抵抗があるものと予測されていたが、意外と混乱は少なく、 旧大名たちは,|I|を罷免されて東京に移住させられ,かわって新政府よ り府知事・県令が派遣された。また、廃藩置県後には官制改革が行われ、太政 官のもとに正院・左院・右院の三院がおかれ、正院のもとに各省がおかれる体 制が整えられた。これによりいわゆる藩閥政府の基礎がほぼ固まったのである。
(d) 下線部のに関連して,こうしたなかで最高教育機関である大学(現在の
東京大学)が最初に東京で設立された。それは何年のことか。もっとも適 切な西暦年を下から一つ選び,記号で答えよ。 あ 1874年
1877年 9 1879年 2 1886年 (e) 下線部に関連して、廃藩置県に際しては万全の準備をすべく3藩の兵
から御親兵が組織された。この3藩にあてはまらない藩はどれか。下から 一つ選び,記号で答えよ。
薩摩藩 長州藩 土佐藩 肥前藩 (f) 下線部に関連して, このとき正院のもとにおかれた八省のうち、現在
も同じ名前の省が一つだけ存在する。もっとも適切な省の名前を答えよ。