【大学受験】立命館大学 全学統一方式(文系・2/3)過去問<世界史>2018


I 次の文章を読んで空欄に最も適切な語句を記入し,下線部についてあとの問いに
答えよ。
[2.
唐と宋の間を中国史上の大きな変動期ととらえる,いわゆる「唐宋変革」説は、 日本における東洋史学の創始者の一人とされる内藤湖南によって最初に提唱された。 内藤は、宋代における君主独裁制の強化,商品経済と都市の発展、儒学の刷新など、 政治制度・社会経済・学術文化にわたる多面的な指標をもって,宋代とルネサンス 時代のヨーロッパとの類似性を論じ、宋代以降を中国史上の「近世」と見なした。 以下、商業の発展という側面から宋代社会の特色を概観する。
唐以来発展しつつあった商品流通は,五代十国の政治的分裂の時代に一層進展し た。行政の拠点である州域や県城は、軍事行動に伴って大量の物資が動いたために 商業都市としての性格を強め、その周辺では | A]と呼ばれる定期市が開かれ、 そこからさらに発展した鎮などの小規模な商業集落が誕生した。このような商業の 発達は、宋の全国統一によって新たな段階に到達した。とりわけ貨幣の統一が進め られたことは、全国的な物流を一挙に拡大する契機となり,流通機構の発達をもた らした。
流通組織では商品の流れに応じて専門的な分業体制が成立し、とりわけ郎店・牙 人という仲介組織の重要性が増した。郎店は主として外来の客商と都市の小売商の 間に立つ問屋として成長した。牙人は本来、商人同士の取引を斡旋して立ち会う業 者であったが、宋代には農村の生産物を買い取って郎店に売却する仲買業務へと進 出し、農村と都市をつなぐ役割を担った。都市と都市の遠隔地間流通を担ったのは 客商であり、彼らは宋代における全国的物流の隆盛を支える役割を果たした。さら に商人同士の相互取引から、信用売買や約束手形などの商慣行も生み出された。そ して都市在住の商人は、|B|と呼ばれる取り扱う商品別に組織された同業組合 を設立し、都市の市場を実質的に運営する存在として活躍したため、 | B | の機 能は以後大幅に重要性を増していくこととなった。このようにして宋代の初期には、 以後の中国に見られる流通組織が基本的に成立したのである。
宋代には対外貿易も活発化した。内陸では陸路により契丹(透)や西夏との交易 が行われ,東シナ海域では日本や高麗との貿易が、南シナ海域では東南アジア諸国 との間で南海貿易が、それぞれ外洋航行のためのキール(竜骨)と四角帆を備えた |c|船と呼ばれる大型木造帆船によって行われた。中国からの輸出品としては、 絹織物・陶磁器・茶などの特産品や書籍・文房具・銅銭などの製品が主なものであ り, 輸入品として契丹西夏からは馬・毛皮・薬用人参・薬草などの物産 日本か らは金・水銀・硫黄などの鉱物資源や刀剣・扇子などの工芸品, 東南アジア諸国か らは香料や薬品類などが中国にもたらされた。こうした海外貿易による利益額につ いては、北宋初期の10世紀末には30万から50万貫(1貫は銅銭1000文)であったのが、 北宋末期の12世紀初めには110万賞となり,南宋初期の12世紀半ばには200万貫に増 加し、続く12世紀の後半には600万から100万貫に達したとする推計も存在する。 これらの貿易は政治権力と結びついて行われることも多かったが、唐代のように 正式な国交の表現である | p|として行われるものではなかった。宋代には、泉 州・杭州など中国東南沿海部の主要都市に| E | 司が置かれ、外国貿易を管理し た。唐末以来|D|や冊封によって成立する国際的な政治秩序は崩れてきたが、 それに代わって商人による貿易活動が東アジア世界を結びつける幹となったのであ

5.
(1] 南宋儒学者で、周敦頭や程願・程願らの学派と欧陽脩らの歴史学派を統合
して末学を集大成した人物は誰か。その姓名を記せ。 [2] 後の末による全国統一への先駆けとなった五代最後の王朝は何王朝か。 [3] 宋代の主要通貨は銅銭であったが、民間の金融業者による手形発行業務を政
府が引き継いで、世界最古の紙幣も用いられるようになった。主に北宋時代に
発行されたこの紙幣を何というか。 (4) 唐代後半から宋代にかけて、主に都から地方に送金する際に使用された送銭
手形を何というか。 [5] 現在の神戸に大輪田泊を整備して日宋貿易を積極的に推進した。 日本最初の
武家政権を何というか。

 

 


I
次の(a)~(e)の文章は、中国近現代史上の重要事件について順不同で列挙 したものである。これを読んで空欄に最も適切な語句を記入し、あとの問いに答え
(a) この年の2月、日本人が | A |において経営していた在華紡と呼ばれるエ
場で、待遇改善を求める労働争議が発生。 拡大した。同年3月には孫文が死去。 一つの時代が終焉する。5月には, A 共同租界の警備にあたるイギリス 警官隊がデモ隊に向かって発砲した結果、死傷者を出すに至った。これを直接 的な契機として、|B | 運動と呼ばれる反イギリス、反帝国主義的な内容を 帯びたゼネストが発生。香港を含む全国において展開した。
(5) この年の9月、遼東半島と南満洲鉄道附属地守備のため現地に置かれた日本
の陸軍部隊である |c|は,|D|郊外において南満洲鉄道の線路を爆破。 これを張学良による犯行だとして軍事行動を開始した。|c | は本国政府の 方針を無視して独走を繰り返し、結果的には翌年3月、満洲国と呼ばれる優 国家を成立させた。また、排日の気運が高まった|A|においても日本人管 侶殴打事件をきっかけとする武力衝突が勃発した。これらの現地軍部の暴走と 傀儡国家樹立によって、中国国民政府との間の火種が拡大したばかりではなく、 国際連盟派遣のリットン調査団によって満洲国成立過程における日本の介入を 批判されるなど、国際的矛盾を拡大させる結果を招いた。
(c) この年以降、全国統一をめざして拠点都市の | E | から出征した国民革命
軍は、労働者や農民の支援を得て北上を続けたが、翌年4月に蒋介石は | A | クーデタ(四・一二クーデタ)と呼ばれる反共政策へと転じた。ここに おいて「連ソ・容共・|F|」を軸とした第一次国共合作は崩壊し、6日後 には南京国民政府が成立した。その後、一時の停滞を乗り越えて北伐は継続。 この過程において中国の統一を望まぬ日本当局は、居留民保護を理由として三 回にわたって山東半島に対する出兵を実施。 二回目の出兵においては、 | G | において国民革命軍との間で直接的な武力衝突が発生した。
(d) この年に | H | 運動が勃発した。これは、第一次世界大戦の戦後処理をめ ぐって開催されたパリ講和会議の内容が、中国側にとって納得できないもの だったため、学生たちが北京において抗議行動を起こしたことに端を発し、や がて各地の民衆を巻き込んで爆発した動きであった。その歴史的背景として、 第一次大戦に参戦した日本がドイツから山東半島を獲得し、続いて二十一カ条 の要求を中国側に突きつけた。その要求の中には日本人を中国の政治・軍事護 問として招くなどの屈辱的内容が含まれていたために, その返還や廃棄が闘争 の主要な目的となった。
(e) この年、国民革命軍に敗北して拠点である | D|へと撤退した | D | 富
陽の首領が暗殺された。いわゆる「満州某重大事件」である。中国統一に邁進 した国民革命軍の中国東北部への進出を嫌うとともに、同地域の直接的支配を
狙った日本軍は、これまで協力関係にあった | i | を暗殺という謀略によっ て排除したのである。だがその子息である張学良は,同年末に「易幟」と呼ば れる政策を断行、東北部において掲揚される旗を背天白日満地紅旗と呼ばれる 中華民国国嫁へと一斉に変更し、国民政府による全中国統一への支持を表明し
[1] 問題文の(a)から(e)を発生した年代順に並べた場合、どのような順番
となるか。下の島からDまでの5つの選択肢の中から正しいものを1つ選べ。
(b) →(a)→(d)→(c) →(e) (d)→(c) →(a)→(e) →(b)
(d)→(a)→(c) → (e) →(b) の (c)→(a)→(e) → (b)→(d)
(a) → (c) → (e) →(d) →(b)

 

 


I 次の文章を読んで空欄に最も適切な語句を記入し,下線部についてあとの問いに 答えよ。
イベリア半島は海峡を隔てて北アフリカに接し、ピレネー山脈を越えてヨーロッ パのその他の地域につらなる。こうした地理的な位置のため、中世のスペインはキ リスト教世界とイスラーム世界との接触地域となり、独自の歴史と文化を織り成し てきた。イベリア半島には旧石器時代以来、様々な人間集団が到来し、その足跡を 各地に残している。古代地中海文明の拡大・発展にともなって、この地にはフェニ キア入やギリシア人が訪れ, アウグストゥス帝の治世下にローマ帝国支配下に入 り、属州ヒスパニアとなった。スペインの地名はここに由来する。
ローマ帝国が分裂し,ゲルマン人が西方に移動を始めると、南フランスからイベ リア半島にかけて西ゴート人が王国を形成し、やがてトレドを都とした。しかし、 711年には北アフリカから | A |人を主力とするイスラーム勢力が侵入し、西 ゴート王国を滅ぼした。さらに彼らはピレネー山脈を越えて当時台頭しつつあった カロリング家のカール=マルテルとB|間の戦いで交戦した。773年には反対 にカール大帝ピレネー山脈を越えて, コルドバに政権を置いた|c | 朝支配下イベリア半島に侵攻したが, 撤退を余儀なくされた。その少し後に, コルドバに はイスラームの礼拝堂である巨大な|D|が建てられ, イベリア半島を支配した イスラーム王朝の繁栄を示した。
10世紀にはイスラーム勢力が支配する中・南部のアンダルス(アンダルシア) に対 して、北部にキリスト教諸国が現れた。レオン, ナバラカタルーニャなどはピレ ネー以北の地域との結びつきを深め、フランス東部のブルゴーニュ地方に910年に 設立され、修道院改革の中心となった | E | 修道院から大きな影響を受けた。と くに, イベリア半島の北西端にあった | F | への巡礼熱の高まりが見られた。ま た。 レコンキスタの動きはそれよりも早く、8世紀頃から始まる。しかし、レコン キスタの本格的な展開は, 1031年に|c | 朝が滅亡した後、アンダルスに小王国 (タイファ)が乱立して、イスラーム勢力が後退してからであった。この点で画期 的であったのは, 1085年の|G 王国によるトレド再征服であった。711年にイ スラーム勢力が上陸してから、400年近くかけてキリスト教徒は北部山岳地帯から 半島中部のトレドに至ったことになるが、トレドに至るまでの土地はイスラームの 町が存在せず、大部分が無住の地であった。ここにかつてのイスラームの主要都市 が初めて陥落したことの意義は大きい。何故なら、イスラーム勢力にとって大きな 衝撃であると同時に, トレドはイスラーム侵入以前にすでにキリスト教の西ゴート 王国の首都であったため、キリスト教レコンキスタの象徴的中心となったからで ある。また、軍事的にもトレドは城壁とタホ河に囲まれた要塞都市であり、そこに 宮廷を置いた | G | 王国がレコンキスタの主役となった。
しかし、トレド奪還がもたらしたキリスト教徒にとっての平穏はつづかなかった。 アンダルスのタイファ王たちは、当時北アフリカの覇者となっていた | A | 人の ムラービト朝に援軍を要請し、|G|軍を撃破させたが、その後タイファ諸国は ムラービト朝によって征服された。この勢力もまもなくアンダルスの豊かな文化と 経済になじみ, 軟弱化してしまった。1130年には同じ | A|人の| H | 朝が 取って代わり、北アフリカからイベリア半島南部にわたる帝国を築いた。彼らは厳 格なムスリムであり,この地域にいたキリスト教徒やユダヤ人が迫害された。この ため文化的に豊かなアンダルスで暮らしていたキリスト教徒やユダヤ人がその北部、 とくにトレドに移住してきた。この結果、トレドは異なった宗教の信徒たちが交流 する中世スペインの姿を代表する都市として、文化的・経済的に繁栄した。ここで はギリシア語やアラビア語の文献の翻訳活動が活発に行われ、同時代のヨーロッパ の文化運動に多大な影響を与えた。 1212年に|G|王国のアルフォンソ8世が率いるキリスト教徒の連合軍がラス =ナバス=デ=トロサの戦いで | H | 朝の大軍を撃破した。これによって | H | 朝は衰退し、レコンキスタが急速に進み、13世紀中頃までにグラナダの||朝 を残して事実上終了した。1252年から1284年まで | G | 王国を支配したアルフォ ンソ10世はトレドとセビーリャに「ラテン語アラビア語の総合研究と学校」を設 立して露訳活動を支援した。さらに『七部法典』を編纂したばかりでなく, ラテン 語とアラビア語の史料を用いた年代記を編纂し、レコンキスタの時代のスペインの 栄光の頂点をきずいた。15世紀末にスペイン王国へと統一されるとともにイスラー ム勢力はイベリア半島から追放されたが、イスラーム文明が残した刻印はアンダル スに今なお色濃く残っている。
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[1] スペイン北部のカンタブリア県にある世界遺産となった旧石器時代後期の洞
窟壁画遺跡の名を答えよ。 [2] この後、カール大帝が現在のカタルーニャ地方に設けた伯領を何と呼ぶか。 [3] この地名は、 ライン川を越えて、ガリアからイベリア半島へと移動し、最終
的にはカルタゴを都として部族国家を建設したゲルマン人の名称に由来すると いわれる。このゲルマン人の名称を答えよ。 [4] 下線部について以下の問いに答えよ。
(a) この文化運動を何と呼んでいるか。 (b) トレドをはじめとする翻訳センターでは、ギリシアの学問ばかりではな
く, アラビアの学問もラテン語に翻訳された。コルドバに生まれ, アリス トテレスの著作に対するその註釈がラテン語訳されて、スコラ学に多大な
影響を与えた人物の名を答えよ。 [5] グラナダに建てられたスペイン・イスラーム建築の代表作とされる宮殿は何

 

 


IV 次の文章を読んで空欄に最も適切な語句を記入し,下線部についてあとの問いに
答えよ。
焚書とは何か。 「本が焼かれるところでは、最終的には,人も焼かれること になる」。これは、19世紀ドイツの作家ハインリッピーハイネが、戯曲『アルマン ゾル」で、イスラーム教徒の主人公アルマンゾルのかつての召使い、ハッサンに語 らせた台詞である。戯曲の背景は、 1500年ごろのグラナダ, イスラーム支配の社会 からキリスト教支配に変わり, イスラーム教徒とユダヤ教徒に対する抑圧が強まっ ていた時期である。このとき、アラビア語の書物が異端として焼かれた。このハイ ネの言葉を, 1958年5月10日, ドイツの作家エーリヒ=ケストナーが「焚書につい て」と題した講演で引用している。25年前のこの日,すなわち, 1933年5月10日, 年の始めにドイツ政権の座に就いた | A | ドイツ労働者党によって焚書が行われ た。接書の演説の際、宣伝省大臣ゲッベルスは、「非ドイツ的」な2人の作家を挙 げたが、そのなかにケストナーも含まれていた。焚書を見物する群衆に紛れて、ケ ストナーは、自分の著書が燃やされるのを目撃している。
1933年、燃やされたのは、書物だけではなかった。1月に|B | 内閣が発足す ると,2月27日に |c|事件が起こる。真相は不明だが、内閣は左翼勢力を犯人 とし、党の活動を厳しく制限する |D|弾圧を行う。この弾圧を利用し、政府は、 立法権を政府に委譲する | E |法を成立させる。この法に基づき、政府は他の政 党を解散させ、新党の設立を禁じる | F |の政治体制を確立した。多くの作家や ジャーナリスト, ケストナーの仕事仲間が次々と国外へ亡命したが、ケストナー自 身は亡命しなかった。|c | 事件が起きたときも、スイスのチューリヒにいたケ ストナーはドイツに帰国する。ナチスドイツの行く末を最後まで見届け, 記録し ようと考えたからである。一方、政府も,ケストナーの国内活動は禁じたが、外国
語に翻訳される人気作家は、内外の評判と外貨獲得のために、当面は生かして利用 するつもりだった。 「暗い時代、ケストナーは、ユーモア小説や娯楽小説を書き, スイスで出版した。 彼の愉快な作品は、匿名だがドイツ語でも映画化された。とはいえ、生命は常に危 険に晒されていた。1934年、銀行に預金を引き出しに行くと、突然、 | G | に逮 捕された。|c | は、国家保全の名の下に市民を無法に逮捕し,裁判を経ずに処 罰した政府の組織である。ケストナーの容疑は、チェコプラハで反ドイツ的な詩 を発表したというものだったが、問題の詩は、ケストナーの書いた古い詩に,他人 が書き加えたものであり,ケストナーは処罰を免れた。 1935年、ドイツは、ヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄し、 | H | 宣言を 行った。さらに、翌年、第一次世界大戦後の国際秩序を保っていたロカルノ条約を 破棄し、|I| に進駐する。1939年8月23日に|J|が締結されると、同年9 月1日、ドイツはポーランドに侵攻した。第二次世界大戦の始まりである。ナチス =ドイツの国外への進軍は、外国出版で収入を得ていたケストナーの生活を圧迫し た。そのような戦時下、すでに国営になっていた映画会社ウーファから,ケスト ナーに映画のシナリオ執筆が依頼される。1943年、ベルリンの空襲が本格化するな か、奔放で愉快な、映画『ほらふき男爵」がドイツと占領地で上映された。1944年 ケストナーのベルリンのアパートは、空襲により,3千冊の蔵書とともに焼失した。 1945年5月7日、ドイツは無条件降伏するが、それまでにナチス=ドイツによって、
数百万人ともいわれるユダヤ人や外国人, 障がい者、体制批判者らが、アウシュ ヴィッツを始めとする | K | に集められ、殺害され、焼かれた。
[1] ハイネが詩人としての名声を確立した。 1827年に刊行された詩集を何という
[2] アラビア語は、イスラーム教徒の聖典を通じて、イスラーム世界の共通言語
「ともなった。この聖典を何というか。 (3) 愛書の対象となった作家のひとりで、反ファシズムを唱え, 1933年にドイツ
を離れ最終的にアメリカに移住した。 小説『魔の山』の作者は誰か。 [4] 1943年以降、独ソ戦は,それまで攻勢であったドイツが守勢となる。1943年
初めにあった戦いで、9万人のドイツ軍が降伏した戦いを何というか。