【大学受験】慶應義塾大学 文学部 過去問<世界史>2018


I 以下の文章を読み,空欄(A)~(J)に最も適切な語句やアラビア数字を記入し,下線部 (1)~(5)に関する各設問に答えなさい。
この地域は,その北方に位置する諸地域に比べると起伏が多いものの,多くが広大な平原や高原で 占められている。いくつもの大河が潤し,のちに「ヨーロッパのパン籠」と呼ばれるように,多くが 耕作に適した肥沃な土地からなる。このような地理的条件は,さまざまな勢力の移動と定住をうながし、 多様性と激動を生じさせた。
太古から,この地域へと大平原を越えて,あるいは海を渡って,さまざまな民が移動し定住した。 この地域では,古くから、キンメリア人やスキタイ人などの遊牧民族が活動していた。これらの遊牧 民族は優れた騎馬術を有し,馬上から矢を射る術に優れていた。スキタイ人は隆盛を誇り,ときには 南のペルシアや小アジアにまでも遠征したという。彼らは約500年にわたりこの地域に平和と秩序を もたらした。その一方で、「タウリスのイフィゲネイア」の神話などで語られているように, ギリシア 人も古くからこの地域を訪れており,紀元前7世紀頃には沿海部にいくつものギリシア植民都市が建設 されていた。スキタイ人ギリシア人に穀物, 魚, 蜂蜜, 奴隷などを売り,壺。織物, ワイン, オリーブ 油などを買った。スキタイ人は金を多用した独自の動物文様を持つ装飾品で知られるが,これらには 彼ら独特の心性が表現されるとともに,さまざまな民族との交流の跡が見てとれるともいう。だがスキ タイ人はサルマチア人に追われ、姿を消した。さらにつづくゴート人やフン人の移動のあとに,6世紀 には(A)人が東方のプルガール人も服属させて, この地域にも影響を及ぼした。(A)人は 7世紀にコンスタンティノープルを攻囲したこともあったが, フランクのカール大帝に敗れたのちは 衰え, マジャール人スラヴ人に吸収されていく。 トルコ系でユダヤ教を奉じたハザール人による支配のあと, この地域を支配したのはスウェーデン系 ノルマン人であるルーシである。伝承によれば,その首長である(B)は9世紀後半に北方のノ ヴゴロド国を建てたが,その子孫はスラヴ系の人々を支配下に収め, 10世紀にはこの地域も勢力圏に 入れた。彼らは、現在この地域の中心である都市を得て, 10世紀末に(C)大公はここを都として 周辺諸民族と戦って領土を拡張したが、彼はギリシア正教に改宗してコンスタンティノーブルから皇帝 の妹を后妃に迎え, ビザンツの制度を導入した。(c)大公と,その息子ヤロスラフ大公の治世が この国の最盛期であり, ヤロスラフ大公はさらに法を整備し学問を奨励した。大公家はヨーロッパ 諸王家とも婚姻を結んだ。ヤロスラフ大公の娘たちはハンガリー王, ノルウェー王, フランス王に嫁ぎ、 息子たちはポーランド王家などから妻を迎えている。当時の大公家の声望の高さと,またネットワーク の広がりが見てとれよう。だが、その後は農民の農奴化と貴族の大土地所有が進み,諸侯が力を得る なかでこの地域は分裂状態に陥った。そのような状況に生じたのがモンゴル人の侵入である。彼らの 騎馬軍はユーラシア内陸部を席巻して,この地域をも襲い, パトゥが建国した(D)国に,この 地域の人々は従うことになった。 14世紀にモンゴル人の勢力が衰え始めると,北方の勢力が拡大してくる。10世紀にキリスト教に 改宗したポーランド王家と(E)大公家の結婚によって生まれた同君連合が進出したのである。 このヤゲウォ朝は結婚や継承などによってハンガリー王国なども手に入れるが,貴族の力が強まり, さらに王統の断絶や内紛によって衰えていく。このような状況下で、農奴制の圧迫を逃れて農民 たちがロシアから移住してきた。ルーシが解体され,さらにモンゴル人の支配が衰えるなかで, この 地域の広大な土地が放棄され,人口は希薄となっていた。肥沃な土地を求めて人々が移り住むように なったのである。だが,一方で,町や村が襲われ奴隷狩りも行われていた。これに備えて武装の伝統を もつようになった彼らは独立性が強く, 何度も蜂起を繰り返し,地域の求心力はさらに衰えることに なる。
次第に北のロシアが手をのばしてくる。イヴァン4世以降、彼らは南へも領土を広げていたが,特に, 帝位に就いた( F )は南下政策を強く推し進め, ポーランド王国を他の列強とともに分割した。 ポーランド王国は(G)年に消滅し,その過半はロシアの手中に帰し,この地域の多くもロシアの 支配下に入った。これと並行して、当時オスマン帝国の保護下の国が支配していた(H)半島を 奪い取り, ロシアは南方の海への出口を確保した。たとえば沿海部のオデッサは, ロシアが得るや 西洋風の港湾都市として建て直され、鉄道が多方面に向けて敷設されて,この地域の物流の中心となった のである。
ロシアの支配はさらに強化され,また植民活動も推進され, ロシア人のコロニーが多く設立された。 農業だけでなく,工業化も進んだ。このような状況でナショナリズムの波はこの地域にも及び, 民族意 識は次第に高まっていった。特にオーストリア支配下の地域では専制の度合いは比較的低く, ナショ ナリズムの拠点となり、西への志向を有した。またナポレオン戦争に従軍して西欧に行き見聞を広めた 若い貴族たちが体制の変革を求めることもあったが、押しつぶされてしまった。だが、母語への関心は 文学を生み出し、自立の思いを高めていった。
体制の行きづまりや戦争の敗北, また食糧・燃料供給の不足などによって20世紀初頭に各地で蜂起が 続き革命が生じると,この地域ではロシアに対する反発。さらに政権を握った(I)党左派である ボリシェヴィキとの対立から軍事蜂起が起きた。彼らは(y)と呼ばれる反革命軍を組織し、海外 列強の支援を受けて激戦を繰り広げたが, 内部分裂によって弱体化したことも影響して,鎮圧された。 この混乱に加えて, その後もソヴィエトの圧政に苦しめられ,さらに第2次世界大戦での激戦地となった この地域は大きな被害を受けた。
戦後ソヴィエト体制に組み込まれてロシア化が進む一方で,この地域の伝統を重視しようとする 動きは,冷戦終結後にソヴィエト連邦が解体するなかで、ふたたび目覚めようとした。2004年の「オレ ンジ革命」の結果、親西欧政策が推進されると,今後の方針をめぐって激しい対立が生じ,政権の交代が
続いた。特に, EUNATO加盟の動きが見られると,この地域のロシア系住民は分離運動を起こ した。これはさらに欧米諸国などによる制裁実施へとつながり, 国際関係は一気に緊張した。この ように,この地域の歴史は,多くの民の移動と定住の中で,複雑な影響を今日にも及ぼしているので ある。
設問(1) ドニエステル川やドン川などとならぶこの地域の大河のひとつで, ロシアから発して, この
地域の現在の中心都市を経て、南北に縦断して海へと注ぐ水運の大動脈である大河は何か。
設問(2) ペルシア戦争を主題とする歴史書を著して,後世において「歴史の父」と呼ばれ,これらの
遊牧民族についても伝えているギリシアの歴史家は誰か。
設問(3) 10世紀にポーランド人が受容したキリスト教の宗派は何か。
設問(4) 彼らは農耕・牧畜・狩猟などを行うかたわら、戦士団を形成してロシアなどに抵抗する
一方で, ロシア帝国が信頼する軍事力ともなったが, この人々を何というか。
設問(5) この分離運動を支持し、「強いロシア」の復活を主張するロシア大統領は誰か。

 

 


I 以下の文章を読み、空欄(A)~(J)に最も適切な語句を記入し,下線部(1)~(5) に
関する各設問に答えなさい。
タンジャーヴールは、西ガーツ山脈に発する大河で「南のガンジス」とも呼ばれるカーヴェーリ用の 扇状デルタの頂部に位置し,同川の分流に面している。南インドのこの古い都市は, , タミル系の チョーラ朝の王都として栄えた過去をもつ。そこにあるブリハディーシュヴァラ寺院は,南インドで 最大規模のヒンドゥー寺院である。リンガを祀る本殿の高さが60メートルを超すこのシヴァ派の大寺院は、 11世紀のはじめ,同王朝の中興の英主であるラージャラージャ1世によって建設された。この巨大な 宗教建築は, シヴァ神に対する王の並外れた信愛の空間的な表現であった。それは,最高の神に熱烈な 愛情をこめて絶対的に帰依し、神の恩寵を希求する宗教運動である( A )運動の一例とすることが できる。民衆の中に深く浸透していったこの神秘主義的な面をもつ宗教運動は, 7世紀頃に南インドで 盛んになり,14世紀頃には北インドにその波が及んだ。それは, パンジャーブ地方出身の(B)が ヒンドゥー教イスラーム教を批判的に統合して16世紀はじめに創始した, シク教の成立にも影響を 与えたとされる。そして,上記のブリハディーシュヴァラ寺院に対してラージャラージャ1世は莫大な 寄進を行ったが,その多くは王の度重なる軍事遠征によって得られた土地や財宝などの戦利品であった。 10世紀末から11世紀はじめに至るラージャラージャ1世の時代に, チョーラ朝の支配地域は目覚ましく 拡大した。インド南端部のマドゥライを首都とする。同じくタミル系の王朝であった(c)朝を 圧倒し, アラビア海に面したマラパール地方の勢力を服属させて南インドの一大勢力となり,さらには
スリランカの北部にまでその統治を及ぼした。またラージャラージャ1世は,当時のインド洋に おけるダウ船などを用いた活発な運輸と交易を背景に,(D)島南部の港市パレンバンを中心と したシュリーヴィジャヤ王国と外交関係をもち,治世の末期には宋代の中国へも使節を派遣するなど, 海外との交流に積極性を示した。
その後衰退したチョーラ朝を13世紀末に打倒することに成功した(c)朝も, 14世紀に入ると 衰滅の時を迎えた。そして, 14世紀前半から17世紀中葉に至るまで, 300年以上にわたって南インドの 広い地域を支配下に置いたのが( E ) 王国である。王国名は「勝利の町」を意味する首都名に由来 するが,それは単一の王朝ではなく, 時代順に, サンガマ朝, サールヴァ朝, トゥルヴァ朝, アーラ ヴィードゥ朝という血統の異なる4つの王朝の総称である。16世紀はじめに同王国の最盛期を現出さ せたトゥルヴァ朝のクリシュナデーヴァラーヤ王の治世に,その版図は,東は(F)やオリッサ 西はデカンの西部、南はスリランカにまで及んだ。しかし,インド南西部のマラパール地方には一群の 小規模な港市国家が残存していた。それらは(E)王国との間に朝貢の関係を結びながら,それ ぞれ独自の体制を保持していたのであった。 マラパール海岸に点在するこうした諸港市の中で, この時代で特に注目されるのがカリカット(現 コーリコード)である。現在はケーララ州に属するこの港は,8世紀のムスリム商人たちの進出を
機にインド洋交易の拠点として成長し, 15世紀はじめには鄭和が率いる明の大艦隊 同世紀末には アフリカ大陸南端の岬である(G)を経由してインド洋へと進出した。ポルトガルのヴァスコ
ダー ガマの来航地となった。前述のクリシュナデーヴァラーヤ王が自ら書いたともいわれる 『アームクタマールヤダ』には、王がその責務として交易に力を入れ, 馬や象をもたらす外国商人を 優遇すべきであるといった文言がみられる。ポルトガル人たちは、南インドの軍事活動において不可欠 であった馬匹海上交易にも参入し, ペルシア湾の ホルムズ方面から年間3000頭を超える馬をマラ バールに運んで同王国へと供給したのであった。 「このヒンドゥー王国と抗争を繰り返したのが, デカン地方で最初のイスラーム王朝のバフマニー朝 である。デリー スルタン朝の第3王朝であるトゥグルク朝の地方総督が「パフマン シャー」と 称して独立を宣言したのが, バフマニー朝の始まりであった。そして, 15世紀末以降,同王朝が衰退 期に入ると,各地の総督が次々と独立を果たし,結局, デカン地方には5つのイスラーム王朝が並び 立つこととなった。これらは一般にムスリム五王国, あるいはデカン五王国と呼ばれる。そして、 これらの王国が同盟し, 1565年にターリコータの戦い(ラークシャシー タンガディの戦い)で上記の ヒンドゥー王国に壊滅的な打撃を与えた。その後, 1620年代の段階では,五王国のうちアフマドナガル 王国(ニザーム=シャーヒー朝), ゴールコンダ王国(クトゥプ=シャーヒー朝), ピジャープル王国 (アーディルーシャーヒー朝)の3つのイスラーム王国が残存していた。しかし, 1636年にアフマド ナガル王国が第5代皇帝(H)の時代のムガル帝国に併合され、続いて残りの2つの王国も ムガル帝国に服属し,毎年一定額の貢納を余儀なくされ, 1680年代には同様に併合されることとなった。
東南アジアから南アジアへと活動の中心を移したイギリス東インド会社は, 1639年(F)湾に 面したコロマンデル海岸の根拠地のマスリパタムをゴールコンダ王国に脅かされた。このため,同港に 代わる新たな拠点として選ばれたのがマドラス(現チェンナイ)である。1654年にはこの地に中央の 商館を取り囲む二重の城壁をもつセントジョージ要塞が完成し,ポンペイ(現ムンパイ), カルカッタ (現コルカタ)に先立つイギリスのインド支配の重要拠点となった。これに対して, 1664年に財務 総監のコルベールによって再建されたフランス東インド会社は, 1680年代にマドラスの南南西 約150キロメートルの地点にあるコロマンデル海岸の都市(I)を根拠地として整えた。この 都市は、シャンデルナゴル(現チャンダンナガル)と並んでインドにおけるフランスの中心拠点と なった。イギリス・フランス両国の東インド会社の関係は,南インドでは1730年代までおおむね良好で あった。しかし,フランス東インド会社の同地の総督にデュプレクスが着任すると, イギリス東インド 会社との抗争が激しくなり,現地の政治勢力も交えながら, 1740年代から1760年代初頭にかけて3次に わたる植民地戦争がおこった。この戦争を南インドの地域名称から(J)戦争という。その帰結 として,(I)を失って決定的な打撃を受けたフランスが退場し、当地のインド側の政治諸勢力も 無力化されていくこととなった。この戦争は,イギリスによるインド亜大陸の植民地化にとって大きな 一歩となったといえよう。
設問(1) 下線部(1)に関連して,ドラヴィダ系言語のタミル語シンガポール公用語でもあるが,
リー=クアンユーを指導者として同国がマレーシアからの分離・独立を達成したのは何年か、 アラビア数字で記しなさい。
設問(2) 下線部(2)の島への仏教の布教を推進したとされ,仏教経典の編纂事業にも力を入れた
マウリヤ朝の王の名前を記しなさい。
設問(3) 下線部(3)の国による植民地支配から1975年に独立した。 ルアンダを首都とするアフリカ
南西部の国の現在の国名を記しなさい。
設問(4) 下線部(4)の島を領有するイランにおいて, 1951年の首相への就任後、資源ナショナ
リズムの先駆けとなる石油国有化をおし進めた人物は誰か,記しなさい。
設問(5) 下線部(5)の両王国ではシーア派の勢力が強かった。ちなみに, ムガル帝国の解体過程に
地方の州長官がガンジス平原に建て, 1856年にイギリス東インド会社に併合されるまで 100年ほど続いたシーア派の王国の名を記しなさい。

 

 


「I 以下の文章を読み,空欄(A)~(J)に最も適切な語句を記入しなさい。
古代における地中海は,「交流の海」として歴史上極めて重要な役割を果たした。古くは,古王国 時代のエジプトとシリア・パレスチナ間の海上交易や, 東地中海各地との交易に支えられたクレタ文明 の発展が挙げられる。時代が下り,前9世紀後半以降、フェニキア人商人は, ピュプロス, シドン, ティルスといった都市国家を拠点に西地中海にまで進出していたとみられ, 地中海を股にかけて活動 していたと考えられる。一方, 前8世紀からのおよそ200年間, ギリシア人は新たな土地や交易拠点を 求めて地中海や黒海の沿岸各地に移住し,そこに植民市を築いた。そうした植民市の中には現代に至る まで港湾都市として存続するものもある。例えば,前600年頃,小アジアイオニア地方のギリシア系 都市フォカイア(ポカイア)出身の人々が、現在のフランス南部, ローヌ川の河口近くに植民市を建設 したが,古代において(A)と呼ばれたこの港町は,近世以降フランスが誇る地中海沿岸随一の 商業港として発展してゆくことになる。こうして建設された植民市と母市との間では活発な海上交易が 行われ, 地中海の広範囲に及ぶギリシア人商業ネットワークが形成されたのである。ここで忘れては ならないのは,こうして地中海に張り巡らされた水上交易ネットワークは、沿岸の港湾都市で完結する ものではなく、主要河川を通じて内陸にも伸びていたということである。その最も顕著な例が, ローマ とその外港である。後2世紀半ばには100万人の人口を数えたこの大都市は,その住民のために膨大な 量の食糧を恒常的に必要とした。その巨大な需要を支えたものの一つが、帝国各地から海上輸送されて きた食糧が到着する外港とローマ市内を結ぶ(B)川の河川輸送であった。
では, この商業ネットワークを通じて運ばれたものは何であったのか。例えば, フェニキア人は、 オリーブ油やワインを積載して地中海を西に向かい, イベリア半島で先住民が採掘した銀と交換した。 また, ローマ帝国時代の前期, ローマ人は「我らの海」となった地中海の沿岸各地から様々な物資を イタリアに集めたが,それは上記の食糧にとどまらず、首都ローマの円形闘技場である(c)で 見世物の一種として行われた猛獣狩りのための動物や, エジプトなどで盛んに生産された一種の紙で ある(D)も輸入されたのである。
しかし,商業ネットワークを利用して運ばれたものは、商品にとどまらなかった。地中海は,信仰の 伝播においても重要な役割を果たしたのである。たとえばキリスト教使徒( E )は,数次に亘る 小アジアギリシア本土への伝道旅行において,陸路とともに海路を利用している。そして, イェル サレムにおいて捕えられた彼が、 ローマ市民権保持者としてローマ皇帝の法廷で審間を受けるために ローマへと護送される際も,東地中海を東西に横断することとなった。また,もともと古代エジプトで 崇拝され, 冥界の神オシリスの妹で妻でもあるとされた女神(F)は,航海の守護神とみなされた ため、商人や船乗りたちによってイタリアの港町に伝えられ,その結果同じく東方起源とされるミト ラス(ミトラ)教と並んで地中海西方でもさかんに信仰されることとなった。 「このように,古代地中海は,人・モノ・情報(知識や信仰)を運ぶ「交流の海」そのものであったが、 しかし別の一面も備えていた。それが,「交流を阻害する海」としての地中海である。その主な阻害 要因の一つとして挙げられるのが、天候である。現代においては,気象予報のおかげであらかじめ 荒天を回避することが可能であるが,それが発達する以前は船乗りの経験が頼りであった。比較的 静穏な海とされる地中海にも,常に難破の危険が潜んでいたのである。その実例として,第1回ポエニ 戦争のさなか, ローマの艦隊は,この戦いの結果獲得することになる(G)島の近海で嵐に遭遇し、 第3回ポエニ戦争に参加したギリシア人歴史家(H)の著作『歴史』によれば,人・船ともに甚大な 被害を受けたとされる。また,上述の(E), ローマへの途上乗船が難破し,かろうじて助かった と伝えられる。こうして,無数の船が地中海に沈んだが, 現代に入り水中考古学の進歩によってこれ らの沈没船とその積荷が次々と発掘されるようになり,古代の商業の様子や船舶技術の解明が飛躍的に 進んだことも事実である。
しかし、古代の地中海に潜む危険はそれだけではなかった。人為的な脅威も見過ごすことのできない 危険である。すなわち,海賊の襲撃である。海賊の脅威がとりわけ深刻であったのは,それが時として 穀物輸送を妨げ, 食糧危機を引き起こしたからである。それがどれほど深刻な問題であったかは,小 アジア南岸を拠点にローマへの食糧輸送を妨害していた海賊を、後に第1回三頭政治を担いその後の 内戦で敗れることになる(I)が前67年に討伐すると, ローマの民衆が(I)を熱烈に支持 するようになったことから窺うことができる。帝政期になり,地中海が「ローマの内海」となって からも,帝国はナポリの近くに艦隊を駐屯させ, 海上交通の安全に目を光らせていた。ちなみに,この 艦隊の司令官を務めた(J)は,『博物誌』を著した学者としても知られる。
古代の地中海は,このように交流を妨げる一面も覗かせていた。しかし,人々は大きな危険を冒し, また実際に大きな犠牲を払いながらも,その海に乗り出し,それによって商業的繁栄のみならず、 文化・文明をも育む大きなうねりを作り出したのである。

 

 


IN 以下の文章を読み,空欄(A)~(J)に最も適切な語句を記入しなさい。
古来, 中国人と中国の周辺に居住する諸民族は、互いの交渉・接触に多大な関心を払い続けてきた。 中国最初期の統一王朝である秦・前漢において,中国側が最もその対応に苦慮した民族は匈奴である。 秦の始皇帝は天下を統一すると将軍蒙恬に30万の兵を与えて匈奴をオルドスに駆逐し,また万里の 長城を築いて匈奴との境界を定めた。ただしこの長城は始皇帝が一から建築したものではなく,戦国 時代に匈奴と境を接する国々が築いていたものを連結した結果の建造物であったとされている。しかし, それにしても長城の建設には多くの民衆の徴発が不可欠であり,この苦役にあえいだ民衆の恨みが、 秦を滅亡に導いた一つの理由となった。秦を継いで前漢を建てた高祖劉邦は,みずから兵を率いて 匈奴の討伐に向ったが,( A )を首長にいただく匈奴の大軍に包囲され、命からがら長安に引き 返す始末であった。以後の前漢はしばらくの間、匈奴に対して和親策を取ることを余儀なくされた。 すなわち前漢側は宮廷の女性を匈奴の首長に嫁がせ,さらに皇帝と匈奴の首長との関係を兄弟の間柄に 設定し,これに加えて絹などの莫大な物品を匈奴に贈与したのである。御奴の首長に送られた女性の うち最も有名なのは王昭君である。彼女の物語は後世に広く流布し,元曲の傑作『(B)』では、 元帝と愛し合っていた彼女は、匈奴の本拠地につく前に投水自殺するという筋立てになっている。
このような匈奴との関係を一変させ,さらに周辺の諸民族国家に対して攻勢をかけたのが武帝で あった。武帝が対外強硬策を取ることのできた背景として,文帝・景帝時代に蓄積された巨万の富と、 景帝期に起こった諸侯王の反乱である(c)を鎮圧したことによって、皇帝の権力が格段に 強化されたことが挙げられよう。武帝は衛青・電去病らに兵を授けて匈奴に打撃を与えるとともに, (D)を西域に派遣し,大月氏国と同盟を結ばせ, 匈奴を挟み撃ちにすることを画策した。この 試みは成功しなかったが, 彼の帰国によって西域の事情が中国の人々の間に明らかになった。武帝匈奴に対して大量の兵力を投入しただけではなく, 東は衛氏朝鮮を滅ぼして朝鮮4郡を置き,また南方 では南越国の内紛に乗じてこれを殲滅して,その地を郡県化してしまった。こうして武帝の外征は華々 しい成果をあげたが、戦争の遂行には巨額の戦費を要し,そのために園庫が空になるという事態に直面 した。そこで前漢王朝は,塩・鉄・酒の専売などの経済政策を矢継ぎ早に施行することを余儀なく された。
さて,こうした中、中国の東方諸民族の一つである優のことが、中国の史書としては初めて 『(E)』の地理志に記載されることになった。それによると,朝鮮4郡の一つである(F) 郡の海の彼方に倭人がいて,その国は百余国に分かれており,定期的に朝直におもむいてきていた模様 である。これは紀元前1世紀ごろの後の状況を示すものと考えられている。周辺の諸民族の朝貢は、 中国側にとっても歓迎すべきものであった。なぜなら,中国王朝の徳が周辺にまで及んでいるために、 異民族は天子の徳を慕って中国に朝貢してくるものと考えられたからである。これをうまく利用した のが、新王朝を建てた王葬である。彼が安漢公であった時, 越営氏が白難を交趾国が屋をそれぞれ 献上してきた。王の徳はこの様な遠方にまで及んでいるのだから,彼が天子の位につくのは天の意に かなっているとされたのである。しかし新は全国の土地を王田として売買を禁止するなど,あまりに 急進的な政策をとったため,短命に終わった。そして新にかわって後漢を建てた(G)の時に、 倭の奴国が使いを遣わしてきた。(G)がこれに答えて倭の奴国に与えたとされる金印が志賀島 から発見されたことは,よく知られた事実である。続いて倭は107年にも来朝したが、その次に日本の ことが中国の史書に現われるのが、邪馬台国とその女王卑弥呼である。時に中国の北方には魏が成立 していたが, 魏と日本列島の間には、公孫氏が自立してその接触を妨げていた。麺は西南の蜀とも敵対 関係にあり,五丈原で蜀軍と対峙していたが, 蜀軍の名将諸葛孔明が病死すると,対蜀戦の精鋭部隊を 五丈原から引きあげて,公孫氏政権の討伐に振り向けた。この結果238年に公孫氏は滅びた。卑弥呼の 使者が洛陽にいたるのは実にこの翌年であり,このことは,邪馬台国がいかに中国の情勢に敏感であった かをよく物語っている。『三国志』魏書・東夷伝倭人の条に, 卑弥呼がこの時「(H)」の称号 を賜わったことが記載されている。
さて, 邪馬台国による使者の派遣の後およそ百年あまり,後に関する記載は中国の歴史書から姿を 消してしまう。日本古代史でいうところの「謎の4世紀」「空白の4世紀」である。しかしこの記録の 欠落を補う遺物が中国の吉林省に残されている。高句麗の(I)である。そこには,「百済新羅は もともと高句麗に支配されており、昔から高句麗朝貢を続けてきた。ところが倭が辛卯の年(391年) より海を渡って百済任那新羅を破り、これを臣民にしてしまった」と解釈できる文章が残されて いる。ここから4世紀の優が,朝鮮半島に対して一定の影響力を行使していた様子がうかがえる。 5世紀に南朝の末に遣使した倭の五王が,朝鮮の支配権を主張する称号を宋側に対して要求したのも, 実態はともかく,こうした倭と朝鮮諸国との関係を考慮にいれて見る必要がある。そして倭の五王が 使者を派遣してから再び百年あまり,倭と中国との関係は途絶えてしまう。その後607年,優が隣に 送った使節は,「日出ずる処の天子,書を日没する処の天子に致す, 差無きや」としたためた国書を 呈し,皇帝の(J)を激怒させた。ここには倭国側の強烈な「ナショナリズム」がにじみ出ている。 しかし当時の日本にとって, 中国は高い文化を擁する文明国であり,後の遣唐使の役割が端的に示して いるように,中国から様々の制度や文化を学ぼうという姿勢は,基本的に変わらない方針だったので ある。